大阪万博出品作品(昭和45年)
”晴嵐館”を訪ねて 江南市大海道町。周辺は住宅と田畑。 その中に林を思わせるような木々の植わった庭の奥に一際目立つ緑色の屋根をした、近代的な洋館が目に飛び込んできた。 それが、”晴嵐館”であった。
東京でご活躍であった先生は、自然の中で生活していこうと、まだまだ都会化されていなかったこの地に終焉の居を立てられた。 家も庭も先生の考案によったものだけに、この庭を散策されながら書の構想を立てておられたであろう。先生の姿が目の前に浮かぶ。
館長をしておられるお孫さんご夫妻に取材させていただいた。
ご夫妻は、 「晴嵐はとても自然との調和を大事にしていた。気分に乗ったら書く」 とおっしゃっていた。お聞きしてから庭に佇むと一層そのことが実感として湧いてくる。
先生ご自身も、御著書(大池晴嵐「巻頭言集」)の中にこう記されている。 「家も庭も私の考案によっただけに、私は私の家を愛する。とくに庭は一木一草といえども、私の愛情のそれである」
筆者の家にも父が何かのご縁で書いていただいたのだろう、先生の書の額や軸、色紙が数点ある。 子供の頃から目にしていたので晴嵐書というと何だか嬉しくなってしまう。それだけに先生の作風には親しみを持っていた。
展示室に入ると、大きな看板文字が目に飛び込んできた。銀座の「山本海苔店」の看板の草稿である。ショーケースに目をやるとTシャツやら酒壜の文字が目に留った。 晴嵐先生の文字と言うと、襟を正して鑑賞する、書家としての作品しか思い浮かばなかったが、実用の中での文字も書いておられたのだ。一層親しみを覚えた。
「先生が書に関わられたきっかけは何だったのでしょうか」 お尋ねするとお孫さんはしばらく考えてから立ち上がり、1冊の書籍を持って来られた。 その本が先生の著書、「巻頭言集」であった。
昭和42年「中日新聞」に連載された、大池晴嵐著「一題十話
書と私」から転載された「付録」の箇所を開いて、 「ここに書かれています」 と示された。
そこには8歳頃の幼少期の、書に関わるエピソードが次の見出しで書かれてあった。 「田舎の神童(親父が造った偶像)、伊賀先生に教えられる」
詳細は避ける。こんな話だ。 晴嵐先生が子供の頃であったある日、父親が書の手ほどきを受けていた伊賀先生のところに連れて行かれた。このことがあってから半年ほどで晴嵐少年も筆を持ち、書き始めていた。いつのまにか父は筆を捨て、倅に期待をかけるようになっていた。
この章の最後では、 「白雲頭の神童?それが親父が送った偶像である」 と締めくくられてある。
晴嵐先生は今の尾北高校の先生をしておられたことは筆者も知っていた。 書家として一流であるが、書道教育にも意を注がれた。 書道教育の振興や日展はじめ書道界への貢献は計り知れない。
だが、御著書の中の次の言葉が印象的だ。 「私は書家だと思っている。書道?教師は仮の姿である」
先生の書作品の前に立つと、偉大な書家としての晴嵐先生の真髄に触れたような思いがしてくるから不思議だ。
郷土の生んだ偉大な書家であることを改めて感じた。
【晴嵐館は展示をご覧になれます。休館日は木曜日、年末年始。ご希望の際は、電話にてお尋ねください。】
財団法人 晴嵐館 0587−56−3170
(安藤) |