7月31日瑞雲展審査のため東京都美術館に出張中、嗣子楓谷危篤の報を受け、急遽帰って病院に駆けつけた。そして、8月1日午前1時53分、遂に楓谷は数え年37歳を以って生涯を畢った。
私は二ヶ月前に、医師から楓谷の死の宣告を受けたので、この上は神仏に祈願するより他は無かった。
生きようとする子、生かせたいと念ずる肉親、それは共に地獄の苦しみを二カ月味わったのである。子は安楽国に往生したが、親の私は今もなお地獄の苦の中に在る。
読経する 耳にさわがし 蝉の声(8月2日)
回縁である南禅寺管長柴山全慶師は「愁人莫向愁人説、説向愁人愁殺人」只心より合掌して涙の枯れるまで泣きなさい、と諭してくれた。
私は70歳を境にして隠居する覚悟であったが、今は楓谷の遺族のためにも、私自身のためにも、命のあらん限り、神の試練に耐えて行く覚悟を新たにした。(8月9日)
「諸行無常」と書いてみたものの、凡夫である私は悟り得ない。
私は当分蝉のように泣くであろう。(8月11日)
(『中道』昭和43年9月号、『巻頭言集』P48) |