訪中日誌(上)
人民大会堂
歴史博物館
北京駅
民族ホテル
民族文化宮
工人体育場
全国農業展覧館
華僑大厦
革命軍事博物館
北京市電話局
第一日 四月二十七日 木曜
午前六時起床。雨、風を交えて強し。
朝食終る頃、酒井康堂君来り、その車にて七時四十分双葉荘を出る。途中雨歇み、羽田空港八時二十分着。奥津女史見送りに来てくれる。十七年ぶりの再会也。
豊道翁 山本 金子 香川 青山 其他諸子に送られて定時(十時)に離陸。BOAC機は優秀にて聊の動揺もなし。飛機に乘るのは始めてなれば、危懼の念を抱きたり。家族共も一入案じ居れり。然るに何等の怖れもなし。
からくにに よしみの使 いさゝかの
不安もなくて 天翔けるわれ
西川団長 松井副団長 これを見て、豊道調也と宣す。余亦これを甘受する。
宮本君 快よげに睡を貪る。
わが友の 機上に眠る 姿あはれ
ゆふべの名残り 思ひやらるゝ
正午頃、日本島を過ぐ。感あり。
大鵬の つよき翼よ ひとときの
間に過ぎぬ 大和島根を
沖縄・台湾あたり、度一万米もあるか、下界更に不明也。
機中洋食可也。
雲海を 下に見おろし 翔る機の
人となりわれ 神秘を覺ゆ
午后三時、香港着。金門酒店に泊す。酒店とはホテルの謂也。手島君と同室。外地に泊する、これが始也。エキゾチックな感なけれど、勝手違いてどうもハヤ。
第二日 廿八日 金曜
午前七時起床 曇天也。
午前十時二十分、九龍駅發にて廣東に向う。
十一時半、羅湖に着。羅湖は國境にて、鉄橋を隔てて中國深圳に接す。こゝにて旅券の切替となり、手間取る事甚し。
駅邊に夾竹桃の紅白、枝を接して咲けるあり。
紅白の 色を交えて 咲き匂ふ
(羅湖)南國の駅(邊)の 夾竹桃の花
やがて連絡成り、中國側の人に迎えられ線路傳いに深圳駅に入り中食の接待を受く。清潔にして明るく頗る感じよし。午后□時、深圳發広東に向ふ。車中、唐月梅女史と語り、中國社会主義の概要を識る。午后□時、広東駅着。中山大学教授揚氏其他の出迎を受け迎賓館に入る。暫らく休憩の後、商品陳列館を観る。規模雄大、國の總力を擧げての営み、唯驚くの外なし。六時半、招宴。九時終る。談笑声あり。燈火點滅(ローソクをつける)、印象に残る會也。
第三日 廿九日 土曜
午前六時起床。曇
廣東航空駅邊に赤き花の咲けるあり。大紅花又は佛桑花といふ由。
浅緑の 中に擢出て 鮮紅の
佛桑花咲けり こゝは中國
午前八時、出航。長沙、武漢を經て、午後二時頃、鄭州に降りる。黄塵到りて飛翔する能はず。二時間餘、風待ちする。
天日を (覆)蔽ひてくらしも 黄塵の
中に舞ひ飛ぶ 白き草の実
遂に鄭州に泊することゝなる。
國際旅館
第四日 卅日 日曜 薄曇
午前六時起床。風歇む。
七時半、機上の人となる。薄日漏れて地上見ゆ。
蜒々と 續く山脈 赤き土
濁れる水よ いつかは澄まむ
九時四十五分 北京航駅着。多数の出迎を受け、直ちに舗装道路二十八粁。両側楊樹?の道を北京市へ走る(約五十分)。新僑ホテルに入る。少憩の後中食。
午后二時半、車を連ねて市中市外の大通りを見學。市外は新建設に成る學校街にて一見せざる者には語りても真を知らしめ難し。帰途故宮門前に少憩す。四時二十分ホテルに帰る。
第五日 五月一日 曇
午前七時起床。
メーデーを故宮に見る。
學童 生徒 学生 農民 工人 各々一小区畫を作りつゝ、歌舞音曲に楽しむ。酒無く喫烟なく太平を楽しむ。堯舜の世の再現也。
夜、天安門にて煙火を見る。
第六日 五月二日 曇
午前七時起床。
團長病氣。
午前午后に渉り、故宮博物館を見る。歴代芸術館、商殷の銅器、多数の実物に接し、驚嘆する。
夜、京劇 野猪林を看る。
第七日 五月三日 水曜 晴
午前七時起床。八時朝食。
九時出發。中國歴史博物館参観。
五十万年前より阿片戦争迠の文物陳列。
「中國各地より集め、各部門に渉る学者其他の協力による大集成である。」
午前午后に渉り、之れを看るも盡し難し。新らしい建設指導者としての毛主席の意図もこれによって覗はれる。
第八日 五月四日 晴
午前六時起床。
午前
人民大会堂にて郭沫若氏に会見。郭氏の新中國建設の理念と抱負を聞く。
午后
栄宝斎 慶雲堂にて買物。
第九日 五月五日 晴
午前 中央美術学院訪問。
美術と書に就いての意見を拝聴する。
部長 葉淺予先生
午後 中国書法研究社訪問。
溥雪齋老人其他と古柯亭に席書する。
北海公園
夜 梅蘭芳の穆桂を見る。
第十日 五月六日
午前 人民公社 北京市丰台
黄土崗 中匈友好人民公社参観。
農業(主として菜園経営)園芸工場(修理)。
午后 美術展参観。
後、東安市場に入る。
第十一日 五月七日
午前六時起床。
午前八時半出發。明の十三陵見學。
定陵の地下宮殿を見、感深し。
十三陵ダムの工成り、北京の水禍を救ふ建設也。
長城へと向ふ途中、居庸関にて西夏、蒙、藏、羅、滿、漢、六種にて書せる石経を見る。長城へ上るも八合にて降る。
夜、下痢する。暁に至りて、
朝まだき 蹄の音に 目覺して
窓越しに見る 驢騾の一群
人の世の 権力愚かし 咸陽の
夢の続かず 残る長城
長城の 石壁のひだに 點々と
名も知らぬ草 (紫の花着く)紫に咲けり
第十二日 五月八日
午前七時起床 四大不調也。
九時 天壇公園へ向ふ。天壇とは天子の祈年する處也。回音壁、(確)劃音壇の力学が五百年前にある漢民族の人智に驚く。
午后 景山公園に上る。景山公園は故宮後部にあり、北京市街を一望の中に收む。
そのかみの 栄華のあとを 見たりけり
黄金に光る 高楼の数々
緑はゆる 光りの中に はてもなく
甍のつゞく 街を見おろす
故宮にて、陸機、王詢などの真蹟を見る。
第十三日 五月九日
午前六時起床。
午前八時半、再び故宮参観。定陵出土品を観る。金冠、外人と会見する皮冠、 祈年祭用の三冠、金貨、銀貨、飲用金用器、衣装其他、木俑を観る。感深し。後ち、陶瓷館 明代文化の粹、■綉館、繪画館、珎宝館を見る。(正午)十一時、中國文化部副部長と正式会見。正午、國際倶楽部にて會食。手島君と共に一席談ず。
文化部副部長 齊燕銘
全國農業展覧会参観。
遠大の理想着々と実現。正に楽土となる第一歩。
天災と たゝかひ捷ちて 楽土とせん
七億人の 力尊し
南水北調
緑化荒山
第十四日 五月十日
午前七時起床。
午前九時半、人民大会堂にて、陳叔通氏並に書道人と会見。形式によるので感なし。
陳氏は清朝最后の進士にて、甞て日本に留学せる八十六翁なり。郭氏と同等の地位に在る人。温容にして貴の相あり。
午后、歴史博物館参観し、夜は對外文化協会のパーテー。
第十五日 五月十一日 木
午前七時起床。
午前中、万寿山參觀。
湖に 映ゆる佛香閣の 金の色
碧の色は 清朝の姿
西太后の豪者に驚くのみ。
午后ルリ街に出て栄宝齋、慶雲堂にて買物する。
夜、全徳聚飯店尓て焼鴨の宴あり。金子明氏の招宴也。
焚き鴨の 味噌の香りに 離れ来し
日本の味を 憶ふ今宵は
午后九時十一分、北京を離る。
訪中日誌(下)
五月十一日、夜行にて洛陽へと向ふ。十二日朝、黄河の鉄橋を渡る。洛陽までの黄河の流域、鉄路の沿線に穴居の状態を見る。
穴に住む 人ありきといふ 古傳説を
黄河の岸に われ見定めぬ
悠久の 姿変らぬ 大黄河の
流れ澄む日も 近しとぞ思ふ
第十六日 五月十二日 金
正午 二十分、洛陽着。
ホテル
三時より市内見物。王城、西漢、東漢の墓見学。帰途、畑に墓誌銘の山積しあるを見る。
王城らしき その姿なし 洛陽の
工業都市に 変らんとする今
洛陽は人口九万の消費都市なりしが、解放後六十万にふくれ上り、トラクター、十分間に一台の割にて製産さる由。
第十七日 五月十三日 土
朝九時發にて、龍門へと向ふ。
北魏より唐へかけての洞窟内の石佛、約十萬体。洞窟数も無数也。賓陽洞左側に褚の伊闕佛翕トウ碑あり。これ摩崕にて一驚せり。龍門二十品は古陽洞にあり。天井其他に燦としてかゞやく。但し、石佛は米國其他に持出され、又は損傷され居り、中國人の怒り極に達す。伊川を隔てゝ香山あり。
白居易の 住みたりといふ (あたり今)香山は
松柏の若木 強く伸びけり
石佛は 語り給はざれど 仰ぐわれ
けがせし者の 業を悪くめり
夜、歓迎宴あり。
第十八日 五月十四日 日
午前九時、洛陽博物館見学。館は寺院也。
十二時二十分、洛陽を離れ西安へ向ふ。
夜十一時十一分、西安着。
はろゝゝと 来つるものかな 唐國の
長安の都に 第一歩して
西安人民大厦に泊。
第十九日 五月十五日 月
午前午后に渉り、西陝省博物館参観。碑林感あり。
たましひの こもれる筆の あと見れば
中國の歴史 永久にきえまじ
書を学ぶ 友に見せたし 千七百の
筆のたましひ 集う碑林を
館は旧孔子廟也。
夜、宴会。つゞいて劇を見る(女巡按)。
第二十日 五月十六日 火
午前、慈恩寺に雁塔を見る。大雁塔はもと随の無漏寺 公元六四八年 唐宗の太子となりし時、改建して慈恩寺とした。後屡々兵火に罹り、明代に至り重修した。
褚河南の 大雁塔の 碑は
生けるが如く 吾に呼びかく
十一時、慈恩寺を出て華清宮へ向ふ。中食を同所にてとる。
華清池は楊貴妃の温泉あり。現在人民の遊覧行楽地となる。ホントに温泉あり。
蓮葉に とびちる珠や 傾國の
貴妃の涙も かくやあらぬか
池の面に 雨の波紋の あまた見えて
驪山は雲に 覆はれてゆく
第二十一日 車中
午后三時五十一分、西安より上海へと向う。車中三十六時間。
上海着、十八日朝四時十分也。出迎への中國要人に感謝す。和平飯店泊。
第二十二日 五月十八日 木
午后一時より市内見物。
上海工業博物館。
上海工芸美術研究社見学。
まつりごと 美しきかな 埋木(の)も
藝にしあらば 世に出づるなり
第二十三日 五月十九日 金 雨
午前、上海博物館參観。
例によって例の陳列なるも、よく調う。献之鴨頭丸の真蹟、敦煌發窟の冩經を看て感深し。一枚は中に草書あり。
公元五四五年、敦煌莫窟發見。
法華経文外義冩経巻
爲 我 有 得 故 之 相 等 などあり。
なお、宋代の木彫、羅漢の胸像鋭し。午后も同じく見る。四時買物。
朝ぎりの たちこめし中を ゆき通ふ
小舟の見えて 黄浦江廣し
第二十四日 五月二十日 土 雨
午前、上海書法篆刻研究所にて交流。揮毫をなす。手ふるえる。
午后、買物をなし、少年宮參観。
少年宮は(総)綜合クラブ活動所なり。こゝにて各少年個人の技能を生かし、將来への勤労芸術を自覚させ、進路をとらせる也。
夜、映画敦煌を見る。漢代より唐代までの壁画にて興深し。
外に中國画による漫画あり。
第二十五日 五月廿一日 日
朝五時起床。五時四十分、蘓州へ向ふ。七時半、蘓州着。蘓州は水の都にて美し。
午前 留園を見る。
迷路續き あまた室あり くさゞゝの
よしあしごとを ここに秘めしか
虎丘 王c王aの別野たり。
生公の 講臺の石疊 今にして
明るき人の 声を聞くらむ
石疊はよく生公の声を響かせ聞きしよし。
午后、寒山寺。
楓橋に 集ひ居る児等の 笑顔あふれ
人民政治の 幸を示せり
拙政園、博物館もあり。
幽邃の 趣のあり そのかみに
住みけん人の 象なるべし
獅子林
太湖石 あまた並べし 造園に
中國人の 性を見るかな
雨のごと 音立てながら 池の面に
稚魚はあぎたふ 園のしづけさ
(藻草食む小魚の音雨に似たり)
雨上り 蘓州の街の 日曜の
午后生色あり プラタナス並木
夜、招宴あり。十時五分發、十一時半上海へ帰る。
第二十六日 五月廿二日 月 曇
午前、師範附属小学校參観。
女校長。職員も女子多数。
生徒数一千、廿一学級。
高級 五 六 毛 週一
中級 三 四 毛細楷 ペン細楷 週二
低級 一 二 毛なし 鉛筆毎日二十分
午后、魯人記念館參観。
魯人は仙台医専在学中、マルクスを研究。中國共産党の先覺者として活躍。五十八才にて病死す。プロ作家。
貧しき者の 幸福に 一生を捧げ
盡せし君の 実は稔れり
夜、招宴。
第二十七日 五月廿三日 火 晴れ
午前、上海労動者、下級の旧住宅を見、續いて工場と新住宅地を見、整備されたる新家屋の部屋を見る。曰く、旧住宅は二三年中に取拂はれると。
午后五時、上海を出て杭州へ向ふ。杭州飯店、夜九時着。
第二十八日 五月二十四日 水
朝目覺め、詩情湧く。
白みゆく 西湖のほとり ものゝ声
なくて寂けし たゞ小波を見る
友を呼ぶ 鵲の声 尋ぬれば
樟樹の若葉 目に入りていたし
午(后)前、西湖舟遊す。
遊覧船の 白き覆ひに かゞよへる
水の反射光 まぼしくあらず
小憩 三潭
竹林に しばし憩ひて 蘓東坡の
在りし日おもひ 今のわれ思ふ
池畔有感
睡蓮の 傍にして 萍が
小さき花つけて 群り咲ける
午后、療養院參観。
山上にあり、眺望絶佳。
第二十九日 五月廿五日 木
午前。西冷印社にて文人墨客と会合し、席書をなす。
竹あまた 叢なして 世の塵を
避けて結べるか 隠間の庵
何事の かゝはりもなし 集ひ寄る
人みな地球を 忘れしが如
午后、靈隠寺へ行く。
里遠く 山峽行けば 岩清水
流るゝところ 佛閣の見ゆ
弥勒佛は どっかと坐して 笑み給ふ
大千世界 見通す如く
堂内に 鳩は巣喰ひて み佛の
功徳を稱へ 救有ゝゝとぞ鳴く
帰途、通天洞にて
岩洞に あまた鐫られし 文字の中に
日本鳴寉の 筆蹟もあり
夜、招宴。張氏の聯あり。
見た事を話す手島君、花土培の名テーブルスピーチあり。
交驩の実を舉ぐ。宴終りて、八時五十分杭州を離れ、一路廣東へ向ふ。
第三十日 五月二十六日 汽車中 金
第三十一日 五月二十八日 土
午(后一)前八時、廣東着。
午后、博物館參観。
第三十二日 五月廿九日 日
午前、南海人民公社參観。
(稲作を主とした)
引續き午后に渉り佛山市陶瓷器其他の手工品の街を見る。
凡例
一、日中国交回復前の訪中であり、昭和36年当時の日誌メモであるため、表現が不適切なこともあるがお許し願いたい。
二、 旧字旧かな遣いは原文のままとした。
三、訂正箇所は判る限り表示した。訂正前には( )を施した。
四、人名、地名、作品名、歴史事項などには略注を施した。
五、誤字はあえて改めず、そのままとし、注釈において訂正した。
紫禁城の中の保和殿と太和殿を取り囲む左右両側の建物。玉器、青銅器、漆器、彫塑、絵画、書など2000余点の美術工芸品が陳列されている。
『水滸伝』の物語の一節。英雄・林冲と魯智深が活躍する芝居。
天安門広場の東に位置する。隣接する革命博物館にアヘン戦争以後の展示。
1892〜1978 作家、詩人、古代文学者、中国科学院院長 新中国成立後、文化教育科学部門を指導。
「穆桂英掛帥」。穆桂英は京劇『楊家将』に登場する女将軍。
明朝13代にわたる皇帝の陵墓。定陵は第14代神宗万暦帝の陵墓。1957年に発掘。
居庸関壁刻六体文字。半六角形、ドーム状の石門の内側に、四天王像の浮き彫りと、梵字・チベット文字・蒙古文字・西夏文字・ウイグル文字・漢字の6種で陀羅尼経が刻まれている。
壁の左右に分かれてそれぞれ小声で壁に向かってささやくと、180度反対の所にその小声が伝わる。
中国南方地域の水を北方地域に送り慢性的な水不足を解消する構想。1952年、毛沢東による構想。
1876〜1966 全国人民代表大会常務委員会副委員長
頤和園。北京西北郊外の丘陵に造営された離宮。西太后60歳の誕生日を祝って造られた。万寿山上に建つ仏香閣は、頤和園のシンボルでもある。
褚遂良 河南郡公に封ぜられたため褚河南とよばれる。
645年、西域から帰り着いた玄奘三蔵法師が、持ち帰った仏典を翻訳作業するために建立された。
西安より北東30キロ、秦始皇帝陵のある驪山のふもとにある離宮。(兵馬傭坑はこののち1974年3月に発見される)
中国の四大名園(北京の頤和園、承徳の避暑山荘、蘇州の留園、拙政園)の一つ。
東晋の王c(349〜400)・王a(351〜388)兄弟がここに別荘を建て、後に虎丘寺という寺院に改めた。
梁の高僧。虎丘寺で石を聚めて説教をしたという故事がある。
中唐の詩人張継の楓橋夜泊(月落烏啼・・・)で有名な寺院。梁時代創建。
明時代に王献臣が作った庭園。園の六割が池で占められる。
元代の代表的な庭園。園内いたるところに獅子の姿に似た太湖石が並ぶ。
西湖に浮かぶ三潭印月は、面積7ヘクタールの島。島の6割が池。
蘇東坡(1036〜1101)は、1089年から2年間、杭州知事に在任中、20万人の人を動員して長堤を築いた。それを蘇堤という。
西泠印社 1904年設立された、篆刻の学術団体。初代社長は呉昌碩(1844〜1927)。字帖、印譜、画冊などを専門に出版。
別名雲林禅寺。西湖の西、北高峰のふもとにある古寺。326年創建。
靈隠寺と道を隔てた反対側にある飛来峰には七十二の洞窟があり、通天洞はその一つ。
日下部鳴鶴(1838〜1922)「大日本明治廿四年夏六月日下鳴寉来游於此」と隷書で刻されている。
このあと、第33日(5月29日 月曜日)は広州→深圳→香港へと移動。第34日(5月30日 火曜日)は夜7:30香港→11:15羽田空港着。
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