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中日新聞 一題十話 書と私
(『中日新聞』昭和42年8月24日〜9月6日連載)
巻頭言より
『中道』(昭和40年4月〜49年3月)
『書芸中道』(昭和45年4月〜52年10月)
訪中日誌
昭和36年(1961年)4月27日から5月30日まで、晴嵐先生は第二次訪中書道代表団の一員として、34日間にわたる長旅に出ました。齢63歳の時でした。香港経由で広州・鄭州・北京・洛陽・龍門・西安・上海・蘇州・杭州、そして再び広州・香港を経て帰国するという中国大陸大縦断の行程でした。団員は、赤羽雲庭、宇野雪村、大池晴嵐、手島右卿、西川寧(団長)、梅舒適、松井如流(副団長)、宮本竹逕、そして全日本書道連盟事務局から村岡久平の合計9名という、書道会のそうそうたるメンバーでした。
ちなみに、第一次訪中団は、昭和33年5月14日から6月18日までの約一ヶ月、団長・豊道春海、団長代理・安東聖空、団員・青山杉雨、江川碧潭、香川峰雲、金子鷗亭、近藤秋篁、炭山南木、平尾孤往、松井如流、松丸東魚、村上三島、随員・豊道和雄、村岡久平の14名であった。
晴嵐先生はこの訪中にあたって、日々の記録と和歌を小型の和本(縦18.5センチ、横12.7センチ)2冊にしたため、「訪中日誌」(上・下)としました。歌人ではありませんので、自慢のできる和歌ではないでしょうが、この筆跡を目でたどり筆を動かしてまねて書いてみると、歌に託した思いが旅の一場面ごとの感興とともに、手にとるように伝わってくるようです。書家晴嵐の日常筆記体という意味では、いわゆる卒意の書といえましょう。 |
書道への悲願
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