昭和3年(1928)普通選挙が行われた時、まだ無名の書家だった私を不思議な縁で三重県選出の川島克代議士が斡旋してくれて、議席標を書くということになった。爾来総選挙が行われる度毎に揮毫してきたのだが、実際問題としてもはや名誉だとか有難いとかいう若かった時代の感激は薄れて十数年以前から苦痛さえ感じてきた。新聞へ出されること、ニュース映画に写されることなど、最も面恥かしい限りである。 いつだったかもう書くことを勘弁してほしいと頼んだが、聞き入れてくれなかった。代議士諸公の中に書の解る人がいて、絶対大池礼讃を事務官に吹込んだそうで逃げようとて逃がさんとあっては致し方もない、有難迷惑な事ではある。―――
戦争の犠牲で古知野へ疎開した。住所がわからぬから追って来まいと思っていたら、チャンと住所を調べ上げて出頭を要求される。古知野へ来てから今回で4回目で、年とともにわずらわしい総選挙だとその度毎にいやな気がしてならない。
しかし議院へ着いて筆を執ると不思議と身が引締まる。日本の政治を議する議員、それは国民の代表者で法的に立派な人材である。よしきた、白足袋宰相の所謂「不逞な輩」がかりにあったとしても、見解の相違で、忠も不忠も功も罪も後世の歴史が示すのだ、国家の為よかれと議する議員なのだ、乃公は書家だ、しかしただの書家ではないつもりだ。乃公の書には乃公の魂が籠っている、乃公の魂が籠った議席に座って不真面目な態度は許さんぞ、立派に堂々と議して、欲しい。乃公も立派に書くんだ……。
そんな気概が身内の血を沸き立たせ、青年晴嵐の若さに立ち返るから不思議なもんである。事実朝の7時から夜の9時まで14時間、飯を食うのと便所へ行く以外、書き続けた9日間、それは通常勤務の20日間にも勝る超重労働であるのである。議会用務を終えて上野の旅館へ泊って2日目、宿の女中の態度が変って慇懃になった。日展の審査員さまとわかったかナと思ったら、さにあらず。
「先生、うちのおかみさんが映画を見に行ってらしたら、先生がニュース映画に出ていらっしゃったッテネ、うちで大騒ぎなんでございますワ。」
晴嵐先生思わずズーとならざるを得なかった。乃公は議会の名札書きに過ぎぬ存在らしいテ、いやはや。
(『尾北高校新聞』より) |