1 庭
「山があって、きれいな水がこう流れて、まわりに木がたくさんあって…。お父っちゃんはそんな所に住みたい。」
名古屋の中村に居を構え、古知野(現・江南市古知野町)に時々稽古にくる時代によく聞いた言葉である。
だから、現在の地に家を建てると、池を掘り、まわりにいろいろな木を植え、岩や石を配置することに、この上ない喜びを感じていた。
そんなにも庭が好きな親爺であったので、貧乏教師でいつも世話をかけていた私は、やっと自動車を買った昭和48年、49年に、湖東三山や万福寺などに案内した。
西明寺の蓬莱庭園、百済寺の巨石の石組み庭園を案内した時は、お袋は素直に「きれい!」と感動してくれたが、親爺は「ふんふん」といっただけで、たいして感心した様子がなかった。
そこで、次には安土桃山時代の史蹟名勝庭園の醍醐の三宝院に行った。
縁側に座って、庭園は座敷に坐った時の目の高さで見るのが一番良いことだとか、橋は、渓流を表わす石橋、野の川を表わす土橋、都の川を表わす欄干付きの板橋になっていること。池の水は、池の向こうの景色を映すために、わざと濁らしてあることとか、一生懸命話したが、やはり「ふんふん」だけだった。
ところが、出口に向かう時ふと中庭を見た親爺は、「いいなあー。」といって、しばらく動かなかった。
きらびやかな表庭より、簡素な禅の心を表わすような中庭の木立ちのたたずまいを愛したのである。
現在の晴嵐館の西入口から入ったところの木立ちの様子が、この中庭と似通った風情があるのは、そのせいかも知れない。
(平成3年4月)
2 釣り行(その1)
昭和22・3年の頃のことである。
この頃は、今と違って食うのに一生懸命の時代で、楽しみといったら、たまの日曜日に、親子三人(父・私・弟の潤)で、大口町の河北(こぎた)を流れる五条川に釣りに行くことぐらいのものであった。
川はきれいで水はよく澄んでいた。流れや瀬では白ハエ、モロコ、センパラなどが釣れよどみではフナが釣れた。
最初の時は、都会育ちで釣りの要領のわからない私や弟に、仕掛けや餌のつけ方、釣り場のポイントを教えてくれたが、次からはそうはいかなかった。
「お父っちゃんは面倒くさがり屋だ。子どもは親の世話をしろ。」
といって、釣りの準備は全部私や弟にさせた。
これが回を重ねていく中にとうとう大名釣りになった。
川に着いて、先ず親爺の釣りの準備をし、餌をつけて渡すと、いそいそとポイントに向かう。私たちが自分の準備をしている間に釣り上げ、「釣れた、釣れた」ともどってくる。魚をはずして餌をつけかえて渡すと、またいそいそとポイントに行く。そのうちにもどることも止め、「オーイ」と子どもを呼び寄せるようになった。そばに行くと、釣れた魚がはねている竿先を目の前に突き出す。よく釣れる時など、子どもは自分で釣っているひまがない。
弟とブツクサいうと、
「これがお父っちゃんの楽しみなんだ。」
でおしまいである。それからは、私と弟と交代で親爺のそばに付き添うことになった。
(平成3年10月)
3 菜飯(なめし)
親爺は菜飯が好きだった。一般に菜飯というと、大根葉でつくるが、我が家のは違う。春先きになって芽吹いた嫁菜(野菊の一種)を田の畝から摘んできて使う。
私が初めて嫁菜摘みに父に連れられて行ったのは小学生の頃だ。その頃は東京荏原区の武蔵小山という所に住んでいた。家から2kmばかり離れたところに円融寺という曹洞宗の古刹があり、その境内の森の北側は一面に田んぼが続いていた。(現在は住宅街)
田んぼの間を流れる水のきれいな小川の土手で、親爺は嫁菜を摘んで見せた。葉の形をよく見せ、茎を指先きでつぶすと、ほのかな香りがする。嫁菜の見分け方の初歩である。軸の赤いのは赤嫁菜(のこんぎく)、白いのは白嫁菜で、赤い方が香りが高い。嫁菜によく似ているのが、葉の裏側に毛が生えているのは鬼嫁菜で、これは苦くて食べられないと教えられた。
嫁菜が生えている所を見つけると、そこにしゃがみ込んで、若芽だけを生え際から小刀で摘みとる。嫁菜は群生しているので、一ヵ所で2・30本は摘めるのだが、一本に3〜5p位の葉が2・3枚ついているだけなので、なかなか量(かさ)が増えない。
やんちゃ坊主だった私は、そう根気が続かない。すぐに倦きて、川底に寒天状になったカエルの卵を捕ったり、魚がどこかにいないか探したりして叱られた。
それでも2時間ぐらいで買物篭7分目ほどは摘めた。そのくらい摘むと、指先きは嫁菜のアクで真っ黒になってしまった。
摘んできた嫁菜をよく洗い、ゆでてアクを抜き、よくしぼって細かく刻み、塩煎りして炊きたての御飯に混ぜると菜飯のできあがりである。
茶碗に盛られた菜飯はほのかな香りをただよわせ、ほどよい塩味で、子ども心にも実にうまいものであった。
菜飯ができると、それを重箱に詰め、温かいうちに必ず豊道先生のお宅に届けた。私も何度かお届けした覚えがある。戦災で江南にもどってきてからも、よく菜飯をつくった。晴嵐館のそばを流れる青木川のふちの田んぼに嫁菜が生えているのを教えてくれたのは親爺である。
私は毎年のように3月末になると嫁菜を摘みに行く。嫁菜の香りのする菜飯をほおばると、春だなあと感じ、親爺がトンビ(二重マント)の袖から手を出して、小刀でチョンチョンと嫁菜を摘んでいた姿が目に浮かぶ。
私は嫁菜摘みをまだ子どもに教えていない。早く教えておかなければこうした野趣あふれる習慣が失われてしまうのではないかと恐れている。
(平成4年4月)
4 釣り行(その2)
夏になるとテンカラ(毛針)で釣ることが多かった。これだと餌をつける必要がないので、親爺の面倒をそんなに見なくてもよさそうだが、そうはいかなかった。
テンカラは、川の瀬や瀬脇の水面を流すため、おもりをつけない。だから、うまく竿を振り込まないと、ちょっとした風で糸が飛ばされ、対岸の葭などにからみついてしまう。そこで親爺は叫ぶ。
「おーい、ひっかかったあ。」
そうなると大変である。ぐるっと大廻りして橋を渡って対岸に行き、葭の中をかきわけかきわけして、仕掛けをはずしに行かなければならない。それができない時は、裸になって川に入らなければならない。この役は弟が多かったが、
「もっと気いつけて」
というと、ニヤリと笑って、
「涼ましてやった。」
テンカラ釣りでも、やはり親爺は世話がやけた。
夏にはテンカラの他に、時々ビンを使った。
親爺の指図で、やや流れの速い所に沈め、ビンの中に入れた寄せ餌の香りで、ビンの中にシラハエを誘いこむのだ。ビンを入れる日は、親爺は自分で米糠をフライパンで煎り、寄せ餌を作った。こればかりは私にも弟にもさせなかった。微妙な煎り加減があったようだ。
敗戦後の食糧難の時代である。河北(こぎた)で獲ってきた魚は、我が家では大切な食料であった。
五条川は河北を過ぎると木津用水(こっつようすい)に入り、対岸の取水口からまた五条川として流れ出す。この下の方に大屋敷(おやしき)という所がある。ここにもよく釣りに行った。
大屋敷の水車小屋の近くでモクズガニの大きいのを捕えたことがある。親爺は、
「川蟹は茄子(なす)と一緒にゆでるとあたらない。」
といって、ゆでて食べた。
釣り行での楽しみは、往復の道でもあった。
古知野から河北まで歩いて約90分、途中に中小口(なかおぐち)という所がある。ここには道路をまたいで藤棚がかけてある所があり、その下に小さな八百屋のような店があり、ラムネやトコロ天も売っていた。
親爺は、それが好きで、
「お母ちゃんには内緒だぞ。」
といって、行きはラムネ、帰りはトコロ天を食べさせてくれた。
腹を空かした私や弟にとって、この店はまことに有難い存在で、この店の近くにくると嬉しくて自然に足が速くなり、親爺に
「そうあわてて歩くな、店は逃げていかん。」
と、よくいわれたものである。
(平成4年10月)
5 お不動さん
私は小さい頃、相当なやんちゃ坊主であったらしい。
「やっぱりお前はお不動さんの縁の下から拾ってきた子だ。こんな事をして…。今度やったら、お不動さんに返しに行きますからね。」
と、よく叱られた。
このお不動さん(東京目黒不動尊)に父に連れて行ってもらったのは、小学校中学年の頃のことである。
「千尋、お不動さんに連れてってやる。」
と言われて、何か買ってもらえると、喜び勇んでついて行った。毎月28日は縁日で、たくさんの出店が並ぶからである。
家から歩いて30分位いである。参道の雑踏の中を抜け、長い石段を登って本堂でお詣りをし、さあ、これから色々な店を見てと、期待に胸をふくらませた時、親爺は、
「そっちじゃない。こっちだ。」
と、出店とは反対の淋しい本堂の裏手の方へ歩き出した。
少し歩くと墓地である。草がぼうぼうと茂っている中を行き、とある墓石の前で止まり、ちょっと拝んだ。そして
「千尋、これが青木昆陽のお墓だ。甘藷先生と書いてあるだろう。」
と、教えてくれた。
そこから引き返し、脇道のだらだら坂を降りながら、青木昆陽は、飢饉を救おうと、関東に甘藷(さつまいも)をひろめた人だということを、一つの物語のように話してくれた。
境内の広場のふちに石碑がたくさんある。それを一つ一つ見て歩いた。
広場は縁日で、あちこちに人垣ができている。
親爺はその中の一つの人垣の後に立って、じっと見ている。早く店の方へ行こうと袖を引っ張っても、鼻をクフンクフンとならして動こうとしない。そこで人垣の間からもぐりこんで前に出てみると、鉢巻きをした香具師(やし)が刀を持ち、口上を述べていた。さあどうだと香具師が品物を売りにかかった時、親爺は私の手を引いて、ツイとその場を離れた。
店でラムネを飲み、買ってもらった飴をなめなめ帰った。
この時の親爺の目的は、私に青木昆陽を教えることと、境内の石碑(大池晴嵐巻頭言集235頁参照)を見ることと、香具師の口上を楽しむことにあったようだ。
親爺は酒が好きで、飲んで気嫌がいいと、余興に「ガマの油売り」の口上をよくやったそうで、お弟子さんによく言われるが、私は聞いた覚えがない。家に落語の「ガマの油」のレコードがあった事やこの時の様子から考えると、あの人垣の中の香具師は……である。
先年50年ぶりに目黒のお不動さんに行った。楼門の前に。白井権八と小紫≠フ比翼塚があった。芝居好きの親爺だったが、幼い私には早いと話さなかったのだろうと思う。
(平成5年4月)
6 味ご飯
親爺は味ご飯が好きだった。
「千尋、お前の削った牛蒡はとても味がいいんだ。」
とか何とかおだてられて、指をアクで真っ黒にして削った覚えがある。
にんじんご飯も好きで、翌朝、残りのにんじんご飯に熱いお茶をかけて、とても旨そうに食べた。子供達ににんじん嫌いがないのは、そのせいかも知れない。ただ最近のにんじんは柔らかすぎて、昔の味が出ないのが残念である。
古知野にきて初めて食べた味ご飯に「さんま飯」がある。親爺はどこでこれを知って炊いたのだろうか。ご飯が蒸らしに入る直前に、甘塩のさんまを入れる。蒸らし終ったら頭と骨を取って、身をほぐして、手早くかきまぜる。
熱々のさんま飯は本当に旨かった。しかし冷えたら生ぐさくて食べられない。
母は釜がくさくなるといって、炊くことをあまり好まなかった。だから、秋の一時期だけの味ご飯であった。
もう一度食べてみたいと思う今日この頃である。
(平成5年10月)
7 お父っちゃんは鵜匠
敗戦後2年目(昭和21年)のことである。
当時は、親爺は書では食えず、布袋(江南市布袋町)の地方事務所内にあった同胞援護会に勤めていた。しかし、それだけではインフレの激しい時代、大家族(9人)を養い切れない。だから、姉は代用教員として草井の学校に勤めていた。私も親爺の友人が校長をしていた千秋北国民学校に勤めることになった。
初めて勤めに出る日、親爺に連れられて、約4kmはなれた学校まで歩いていった。
親爺は歩きながら、赴任最初の挨拶の仕方を教えてくれた。朝礼台に上がったら、こういう風におじぎをし、こういう順序で話すのだと、挨拶の言葉を教えてくれた。何度も練習させられ、人気(ひとけ)のない畑道では立ち止まって、さあもう一度やってみろと、念を押すように稽古させられた。
初めて実社会に出る息子の不安を取り除き、赴任先の先生や子ども達に良い印象をもってもらえるようにと、一生懸命の親心であった。息子は残念ながら上がってしまい、その通りにはできなかったのだが……。
初めての月給をいただいて帰ってきた時のことである。
家に帰ってくると、親爺は座敷にチャンと坐っていて、私の顔を見るなりいった。
「給料が出たろう。ここへ出せ。」
私が給料袋を差し出すと、親爺はちょっと押し戴くようにして、中から数円取り出し、(当時の給料92円)
「はい、小遣い」
と、私に渡し、あとは懐に入れてしまった。
「エッ、これっぽっち?」
というと、私の首を手で締めるまねをして、
「お父っちゃんは鵜匠だ。お前の首には縄をつけてある。餌はちゃんとやるが、後は鵜匠のもんだ。」
といった。
生活が苦しいことは分かっていたのであきらめた。姉もきっと同じ様であったに違いないからだ。
以来、私の方から「ハイ鵜匠」といって渡すと、親爺はニンマリと笑ったものである。
(平成6年4月)
8 銭湯(その1)
空襲で焼け出されて帰った古知野の家は、古い庵寺を移築したもので、風呂の設備がなかったので、近くの銭湯に通った。
たいがいは、親爺と弟(潤)と私の三人連れであった。
「おい、銭湯に行くぞ。」
という親爺の声に、私と弟はいそいそとついて行った。もちろん手拭いや石鹸は息子が持つ。
ぶらぶらと歩きながら、
「最近の政治はなっとらん、お前はどう思う。」
なんてことを話した。親爺はおれは世俗を離れたい≠ニよく言い、悟りにあこがれていたのだが、その逆の政治のことも大好きだった。
銭湯につくと、親爺は板の間でさっさと脱いで浴室に入っていく。私と弟とで、親爺の着物をまるめ、脱衣箱に入れて、あたふたと入る。
浴槽のややぬるい方にゆっくりつかって、さて、身体を洗う段になると、親爺は、
「おい」
といって、私の方に背中を向ける。私と弟が交代で流すと、
「うん、うん、そこをもう少しこすれ」
などといって、目を閉じて気持ちよさそうにしている。
「ハイ、終わり」
と、背中をピシャンとたたくと、
「うん、いい気持ち。」
というだけで、動かない。ついでに肩をたたけということである。
肩にぬれ手拭いを掛け、湯を流してからしばらく肩をたたくと、
「ずい分腕が上がったな。」
などという。ほめられて終わりかと思うとサニアラズ、
「昔の三助は、肘と肩をコウ当てて……。」
と、注文がくる。
小太りの親爺の肩はピンと張っていて、少々強くぐりぐりとやっても、痛いといわず
「うーん、気持ちいい」
であった。
銭湯の帰りには決まって立ち寄る店があった。アイスキャンデー屋である。
ラムネを一本ずつ買って、親子で飲む、これが毎回の楽しみでもあった。
息子たちはチビチビと飲んで楽しんだのだが、親爺は一気に飲んでしまうのが常だった。一気に飲むと、あとでゲップが出る。親爺はこのゲップが気持ちいいんだと、一気飲みを続けたのだった。
冬の寒い、凍てつくような夜、親子でぬれた手拭いを振り廻して凍らせ、誰のが一番早くピンピンに出来るかを競争したこともあった。
(平成6年11月)
9 銭湯(その2)
数年経って、家の東側に張り出しを造り、便所(それまでは別棟の外便所だった。)風呂場、台所を増設した。
風呂場は1坪もない小さなもので、専用の脱衣場がなく、土間をへだてた玄関の板の間を衝立で仕切ったところを使わなければならなかった。
だから、冬などは寒くてたまらなかった。
それでも、新しい木の香りのする風呂(丸桶型)は気持ちの良いものだった。
風呂釜は薪を燃やすもので、今のプロパン用の釜よりやや大きいくらいのものだった。熱効率は良いのだが、多人数が使うので、薪の確保が大変だった。
ちょうどその頃、家の南側の桑畑をつぶして、普通の畑にするため、桑の木を引き抜く作業をしていた。
養蚕が駄目になってきた時代である。
親爺はそこに目をつけ、桑の持ち主に話をつけ、引き抜いた桑の木をたくさん買い付け、家の東側にうず高く積んだ。
桑の木は長さ1mちょっと、太さ20糎ぐらいあった。
私と弟が薪割係りで、鋸で適当な長さに切り、ヨキや手斧でパンパンと割った。勿論その監督は親爺で、細かく割ったもの、やや太いものの割合はどのくらいがいいなどとやかましかった。
2・3か月経って、木の香も失せた頃になると、時々銭湯に行くようになった。特に冬になると、その回数が増えた。
薪の確保が難しいこともあったが、脱衣場の温かさ、洗い場の広さ、ゆったりした浴槽の気持ち良さが、往復の面倒くささ、寒さなどに打ち勝ったのである。
私や弟は、それにもまして、帰り道のラムネに魅力を感じていたのだ。
今日は銭湯に行くぞ
という、親爺の声を待っていたのだ。
親爺は、広い浴槽で手足を伸ばし、目を閉じてボンヤリしていることが好きだった。
そして、
いい気持ち、こうしていると、嫌なことも忘れられる
と、いっていた。
しかし、親爺は気まぐれである。
いつだったか、ムスっとした顔で外から帰ってきた。いつもだと、帰宅した時はお袋と何か言葉を交わすのだが、それもしないで、座敷に行きデーンと坐っていた。それで、
「親爺、銭湯にでも行ったら……。気分が変わるかも知れないよ。」
といったが、三角の眼でジロリと私の方を見て、
「風呂に入ると、嫌なことが忘れられるのか。石けんで落ちて流れるというのか。」
といって、プイと横を向き、知らん顔。
余程虫の居所が悪かったらしい。取りつくしまもなくて、早々に退散した。
「親爺、今日はどうかしている。さわらぬ神にたたりなし。」
と、弟と裏でゴチャゴチャとしゃべっていた。
しばらくして、
「オーイ千尋、何ぐずぐずしてるんだ。」
という、親爺の声。見たら、洗い桶を持って、戸口に立っていた。
その日の銭湯でのマッサージはとても疲れた。
(平成7年5月)
10 朗読は子守唄
親爺は時代小説が好きだった。その中でも特に好きなのは、吉川英治の宮本武蔵と、野村胡堂の銭形平次捕物帖であった。
親爺は自分でも読んだのであろうが、夜、自分はフトンで寝ていて、その枕元で、誰れかに朗読させることも好きであった。
初めの頃は姉がその係りであった。
私は本を読むことが好きで、母親の目をぬすんで小説を読みふけっていた時代で、母親に「外で遊んでらっしゃい」
と、家からよく追い出されていた頃であったので、公然と小説が読める姉がうらやましくてたまらなかった。
それが、中学に入った頃にやっと番が廻ってきた。私はとても嬉しかった。
親爺の枕元に坐り、そばに置いてあった宮本武蔵を取り上げ
「どこから読むの」
ときくと、
「宍戸梅軒のところから」
といって、自分で頁を指定した。
私は張り切って読んだ。もっとも、夜中であるから、あまり大きな声ではない。つかえぬ様、間違えぬ様に気をつけながら読んだ。
10分も読んだだろうか。親爺の寝息がスースー≠ニ聞こえてきたので、もう眠ってしまったのかと思い、読むのを止めた。すると
「ううん、どうした。」
と親爺。
ありゃ、まだ眠ってない
と、また続きを読んだ。するとすぐまたスースー%ヌむのを止めると、
「ウ、ウン」
とくる。
こんな事を繰り返しているうちに、寝息からイビキに変った。声をだんだん小さくしていき、読むのを止めて、そっと自分の部屋にもどった。
何回か朗読をした後、
「僕の読み方はどうだった。」
ときいたら、
「うん、思ったより上手だった。」
といわれたので、気をよくして、自分なりに工夫して朗読した。
一か月位経った頃だった。親爺は私に
「徳川夢声の朗読は上手いなあ。緩急・間のとり方が絶妙だし、声を特別に変えなくても、女の科白の時はチャンと女に聞こえる。年も感じさせる。」
と、感に堪えぬようにいった。
私は早速、ラジオ番組を調べて、夢声の物語りを聞いた。
よく頂門の一針≠ニいうが、まさにその通り、頭にガーンときた。もともと講談が好きで、宝井馬琴などよく聞いていたのだが、それとはまた違う分野の朗読で、これ程情景が眼に浮かぶようにできるとは……。
それからの私は、夢声の物語りの番組を一生懸命聞いた。そして、夜伽の朗読に生かすよう心掛けた。
宮本武蔵が終わると、次は銭形平次捕物控百話になった。
親爺は相変わらず途中で眠ってしまう。
推理小説の好きな方はよく判ると思うが、読み出したら途中では仲々止められない。だから、親爺の寝息が聞こえてきても、だんだん声を小さくしていき、最後は黙読となって、一話が完結するまで読んでしまうことになる。
ところが例によって、黙読になって暫くするとウフンそれから≠ニくる。それで前にもどって読み直す。これは面白くない。
ある時姉にぼやいたら、
「千尋は下手だな『ウフン』といったら、今読んでるところから声を出せばいいんだよ。絶対判らないから」
と、教えてくれた。悪い姉だ。でも、早速試してみたら上手くいった。
以後気がとがめながらも、この手をずいぶん遣った。親爺は子どものたくらみを知っていたであろうが……。
(平成7年10月)
11 五本足の君(きみ)
戦災で引き揚げてきた古知野(江南市)の家は、前にも書いた様に、古い庵寺を移築したもので、炊事場は裏の巾1間長さ3間の細長い土間にあった。
煙抜きのない造りなのに、薪でご飯を炊き、炭で煮物をするという具合いであったので、中は真っ黒にすすけていた。
もともと祖父母が隠居用にと考え、祖父が死んでから祖母一人がひっそりと住んでいたところに、総勢8名が同居したのであるから、(後には満州から引き揚げてきた母の妹の家族3名が加わって12名となった)炊事は大変であったし、その為の燃料の確保もまた大変であった。
たきつけにする松葉は祖母があちこちの知り合いに頼んで確保し、炊事場の奥に積みあげた。しかし、下が土間であるから、松葉をそのまま置くと、下の方はしけてしまって使いものにならなくなってしまう。そこで親爺は、たきもの用の台を作ることにした。
たまたま家にあった長い板を取り出し、その四隅に垂木を切って足をつけた。
板は厚さが5分(1.5センチ)もない薄いもので、しかも長さが1間(1.8メートル)ばかりのものであったので、作った台の上に薪や松葉を積むと、真ん中がしなって、今にも折れそうで、危なかしくって仕方がない。何んとか補強しなくては、とてももちそうもない。
普通なら、板の裏に補強材をつけ、支える足を偶数本増やしてやるのだが、材料が足りない。そこで親爺は考えた。一番弱い所につっかい棒をすればいいと…。
それで出来上がったのが、四隅に支柱、板の真ん中に一本のつっかい棒のある台である。しかも、その一本足のつっかい棒はやや短かくて、少し浮いていたのである。
母や姉は、それを見て、
「なーに、これ」
と、大笑い。
しかし、親爺は
「うん、これでよい。」
と、平然たるもの。
早速、炊事場の土間に置いて、その上にたきものをのせると、板が少ししなって、真ん中の足が土につき、台は安定した。
「そーれ見ろ。お父っちゃんの思った通りだ。」
と親爺は得意満面であった。
しかし、普通なら6本足にすべき所を、5本足にしてしまったのだから、どう見ても格好が悪い。
口の悪い姉は、早速親爺に愛称を奉った。
五本足の君
これは良い名前だと、お袋も賛成。以来、しばらくの間ではあったが、家族の内では親爺のことを五本足の君≠ニ呼ぶようになった。
(平成8年4月)
12 酒
親爺の酒好きは有名で、酒の上での話は、多くの方々のよく知るところである。
一杯呑まないと「書」を書かない
とかいわれ、私の友人などから本当かと尋ねられたことが何度かある。しかし、私が知っている限りでは、余興の戯れ書きは別として、飲んでから作品を書いたということはなかった。
昭和23・4年頃だったと思う。私の勤めていた千秋北小学校(現在は廃校になってしまった)で、三人の書家が集まって「書」を書いたことがあった。
親爺と、日展の招待作家であった長谷川流石先生(千秋北小学校下在住)と、当時滝学園で教鞭をとっておられた長谷部雲外先生の三人である。
どの先生も酒に目のない方だったので、肝煎りの村の名士の方が、その頃貴重だった酒を十分に用意してくださった。
私は墨すり役で、大きな硯で、何杯も墨をするのに大わらわであった。
用意が整って、いざ作品をという時、村の方が、茶碗に酒をつぎ、
「先生、景気づけにどうぞ」
と三先生のところに運んだ。
その時の親爺の言った言葉を私は今でも忘れられない。
「私は作品を書く前は呑まない。真剣勝負だからだ。けれど、書いた後の酒は本当に甘味(うま)い。それが楽しみだ。」
親爺の酒の呑み方は、最初一口すすって、口をもぐもぐさせ、次にヒョットコみたいな口をして飲み込む。そうして酒を味わってからは普通に呑んでいた。
私もまねをしてやってみた。良い酒だと、口の中で一杯に香り広がり、鼻にも匂ってくる。なるほどと思った。それ以後、時々そうした呑み方をしている。
親爺も晩年はだいぶ弱くなって、酒をお湯で割って呑むようになった。
火爛徳利に酒をつぎ、湯を少し入れて、
「これぐらいが丁度よい。」
といって、呑んでいた。
私もお相伴(しょうばん)で少し呑んだことがあるが、香りはするが水っぽくてたまらない。
「何んだ、水っぽくて呑んだ気がしない。」
といったら、
「この位いがいいんだ。江戸時代の酒はこんなもんだと聞いている。落語に出てくる五升酒を試しに呑む話など、酒がうすかったからできたんだ。良い酒はこれでもよい香りと味がする。」
といって、嬉しそうに呑んだ。
最近になって、私にも少しその気持ちがわかるようになってきた。
(平成8年10月)
13 火事場の馬鹿力
東京で焼け出されて、古知野に引き揚げたのは、昭和20年4月始めのことであった。
空襲は日増しに激しくなり、夜は灯火管制で、外は真っ暗であった。
空襲警報が出て、庭から南の空を見ると、名古屋方面で爆弾や焼夷弾(しょういだん)により火災が起き、赤々と燃えているのがよく見えた。
親爺は、それを見て
「ああ、心臓がおどる」
と、よくいった。
心配事があると、心臓が相当ドキドキしたらしい。
しかし、私は、古知野は田舎だから、空襲を受けることは先ずあるまいと思っていたから、親爺の取り越し苦労と笑っていた。
それがどう間違ったのか、4月14日の夜、とうとう、古知野にも焼夷弾の雨が降ってきた。トタン屋根を竹箒木でこすった時の様なシャーッザザシャーッという音が頭の上でした。
私は二階にいて、窓から外を見ていた。
ヒューッという音と共に、家の裏手でドスッと音がして家がゆれた。
やられた!≠ニ思って、急いで階段を降りようとしたら、眼の前が真っ赤になった。
階段下のすぐ外の地面に焼夷弾が落ちたのだ。
消さなきゃ≠ニ、階段の途中まで降りた時、その火がパッと消えた。
誰れかが消したらしい。それで私は、家のまわりを見回わり、飛び散った油脂をたたいたり、水をかけたりして、火事になるのを防いだ。
一段落してホッとしていた時、姉がいった。
「お父さんすごかったわよー。あの大きなタライを持ってって、焼夷弾の上からガバッとかけて、一ぺんで消しちゃったんだから…。見直しちゃった。」
ヘエッ。すごいなあ。≠ニ思わず親爺の顔を見た。
「お父っちゃんだって、やる時にはやるんだ。」
と、鼻高々であった。
夜が明けて、焼夷弾の後始末にかかった。
落ちた所は一日中陽が当たらずジメジメして柔かい所だったが、直径1メートルぐらいの穴があき、焼夷弾の破裂してギザギザになった頭部が見えた。
ああ、50キロ弾だ≠ニ思った時、胴ぶるいがした。
まともに爆発していたら私の命はなかったかも知れない。
慎重に掘り起こし、黄燐の混った臭い油脂(放っておくと自然発火する)を始末した。
一家を背負う親爺は、やはり頼もしいところがあった。火事場の馬鹿力は嘘ではない。
(平成9年5月)
14 親爺と住居(すまい)(1)
親爺の好きな書家はいろいろあったと思うが、日本の書家では「良寛」であったといえるだろうと思う。
書風もさることながら、良寛の恬淡とした生活に最もあこがれていたのではないだろうか。
親爺は若い頃から相当苦労を重ねて来た。(巻頭言集・書と私参照)だから、自分の好きな所で、好きな様に、あくせくせずに暮らしたいという願望があり、良寛の暮らしに、自分の夢があったのではないだろうか。
しかし、親爺も人の親、妻子にひもじい思いはさせたくなかった。それで、一所懸命に働らいて、よりよい環境の家に住むようにしたかったのだと思う。
私の小さい頃は、東京の荏原区(今の品川区)の小さな裏長屋に住んでいた。しばらくして、一戸建の立派な家に引っ越し、数年後には、土地を買い、家を新築した。私の小学校から旧制中学4年の初めまでの約10年間、そこに住み、書家としての名声も上がってきていたが、戦災で焼け出され、故郷の古知野に帰らざるを得なかった。
古知野の家は祖父の隠居所であった所で、古い庵寺を移築したものだったので、一家9人が住むには非常に狭かった。
戦後すぐのことで、どこも食うのに精一杯の時代、書道教授だけでは暮らしていけず、親爺は布袋の地方事務所内にあった同胞援後会に勤めていた。しばらくして、高校の教員免許を取得して、尾北高校の書道教員となった。
この頃、尾張の若い人たちに、夜、書道教授をしていた。狭い家なので、子供たちの居る場所がなく、台所や奥の部屋で、ボソボソとおしゃべりをして、お稽古の終わるのを待っている有様だった。
だから、親爺は安心してお稽古のできる部屋が欲しかった。
東京時代、国政選挙があるごとに、国会議員の議場用の名札を書いていたが、古知野に帰ってきてからも、それを続けていた。当時としては、とてもよいお金になったようで、そのお金で、「離れ」を建てることにした。
大工は、宮大工をしていた寺沢の文さんという人で、小さな離れを建てるのに半年以上もかかった。
「エライのんびりだなあ」
といったら、親爺は
「これなら早い方だ。ヒーちゃんの隣の家を建てた時など3年以上かかったんだぞ。これが本当の昔気質の職人の仕事だ。」
といって、目を細めていた。
いつお願いして書いていただいたか知らないが、出来上がった離れに「洗塵艸廬」と題した豊道先生の額が掲げられた。
この当時の親爺の気持ちを現わした言葉であろうと思う。
(平成9年10月)
15 親爺と住居(2)
古知野の家に離れを建て、一応、書のアトリエ兼若手書家育成の場所は出来たが、ここに長くは居られなかった。
日展五科の審査員となり、上京することが多くなった。また、名古屋在住の方々やお弟子さんも多くなり、古知野では不便で仕方ない。そこで青柳堂さんの好意もあり、名古屋の中村に家を建てて、そこに住むことになった。
この頃は、まだ祖母も健在で、また中村の家もそう大きくなく、私と姉は近くの小学校に勤めていたので、祖母と姉と私が古知野の家に残ることになった。
名古屋に転居してしばらくは、書道教室や、尾北高校での勤務、週1回の古知野での夜のお稽古で、忙しい忙しいの毎日、傍目には充実した生活であったようだが、親爺の心の奥に潜む、良寛的生活への憧れは、いよいよ強くなっていったようである。
「お父っちゃんはなあ、後ろに、コウ…山があって、前に川が流れ、自然いっぱいの長閑なところに住みたいんだ。」
と、私に身振り手まねをしながらよく言ったものである。
とうとう名古屋を離れ、現在の地(晴嵐館のある所)に家を建てることになった。
ここでもアトリエ兼用の離れが欲しくて、前にも書いた宮大工の寺沢の文さんに頼んだ。
外見は普通の入母屋の離れだが、文さんのこと、目に見えない所でコリまくった。
親爺が
「そんなにやっても、金がないから払えん。いい加減にしてや…。」
と言っても、
「いいからいいから、金はできた時に貰えば…。」
と、自分の気のすむように建ててしまった。
親爺は、この住居を「三猿庵」と名付けた。
見ザル聞かザル話さザル♂エは来る者は拒まず、去る者は追わず、自然体で生きるんだと言っていたが、その思いを、この庵号に現したものである。
さて、家が建つと、念願の自然風の庭である。
庭というものは案外金がかかるものだ。お袋は名うての浪費家、渡したお金はアッという間に遣ってしまう名人だったから、お金が貯まることなど先ずない。そこで親爺は揮毫料など、上手にチョロまかして、ヘソクリを貯めこんだ。
ある時、近くを庭石を積んで売り歩くトラックの上にあった四国の石が欲しくてたまらなくなり、とうとう買ってしまった。数十万円もした買い物に、お袋の目が光り、だいぶやり込められたようだ。
ここは、もともと松林で、下がゴロゴロの大きなグリ石ばかりの土地だった。まわりには家がほとんどない所だった。この地方では、平地であっても林になっている所を、ヤマ≠ニ呼ぶ習慣がある。そこで、家の者は、この新居をヤマ≠ニ呼んでいた。
だから、親元を離れた子ども達が、
「今日はヤマヘ行ってくる。」
と言えば、親爺の家へ行くということを意味していた。これは、現在でも続いている。
離れを建てた当時の家のたたずまいは、東門から入ると右手にカギ型の母屋があり、突きあたりに渡り廊下でつながった離れが建ち、広くとった庭に池があった。底を自然のままにしてあった池は、田植の頃になると、湧水でいっぱいになり、冬は水がなくなってしまっていた。
(平成10年5月)
16 親爺と住居(3)
離れを建てて数年後のことである。
久し振りに親爺に敬意を表わしにヤマ≠ノ行った。
すると、母屋と離れとをつなぐ渡り廊下の横で、従弟で大工になった、通称オサさんが、トンカチとやっているではないか。また何を普請しているのかと、オサさんにきいた。
「伯父さまから頼まれて、小さな部屋を建てているんだ。」
私は、大きな家で、部屋はたくさんあるのにと思い、早速、親爺に尋ねてみた。
「うん、あれはお父っちゃんのプライベート書斎だ。」
と言う。
「書斎なら、離れに立派なのがあるじゃないか。」
と言うと、
「あれはお客用。こっちはお父っちゃん一人の書斎。」
との答え。
言い出したらきかない親爺のこと。お袋はプイと横を向いたままだった。
数ヶ月経って行って見たら、本当に小さな書斎が出来上がっていた。
親爺がそこでどのような仕事をしていたのか、一人ポツネンとそこに居り、自由気ままに振舞っていたのかは、一緒にいない私には判らない。
お袋に聞いてみたが、あまり活用はしていなかったようだが、親爺としては、何かあった時逃げこめる、自分一人の気儘な巣穴が欲しかったのではないかと思う。
私は退職前に離れを建てたが、設計の段階で、書斎と書庫については、妻や娘に猛反対され、ついに希望はかなわなかった思い出がある。
教育者という名で、いろいろ規制され、ストレスのかたまりであった私は、本当に何にも邪魔されない、自分の城が欲しかった。
今になって、孤独を楽しみたかった親爺の気持ちが判るような気がする。
余話 離れの襖
離れは二間になっていて、その仕切りの襖に、前は、村瀬太乙の自筆の書があった様な気がする。これは、東京の家から持ってきたものである。
昭和20年、空襲が最も激しくなった頃、親爺の故郷古知野に帰ることになった。
頻繁にある空襲で、家財道具を送るのが難しく、国鉄が決めた取扱駅(家から電車を乗り替えて3区目)で並んで順番待ちをしなければならなかった。
家族は先に疎開していて、最後まで残っていた親爺と姉が、連絡のため帰郷し、中学4年の私が、毎日並んだ。
あと少しで家の番になるという4月15日の夜、とうとう我が家も空襲に遭い、知り合いの家の子(小6)を連れて、命からがら逃げ回った。
空襲が終ってもどってみると、一面の焼野原、もうすぐ発送出来る筈だった荷物も、すっかり燃えてしまっていた。
ところが、東大海道に家を建て、離れが出来てみると、何んと、そこに東京の家の二階の襖に貼ってあった書が、同じ顔をして、そこにあるではないか。
あれっと思って、姉に尋ねた。すると姉は、
「なんだ千尋、知らなかったの。あれは、最後に東京の家を出るとき『このままだと、空襲でやられるかも知れない』って、お父さんが襖からはずして、持ち帰っていたのよ。」
と教えてくれた。
現在は取りはずし、親爺が揮毫した尾張三英傑と源頼朝の詩になっている。
(平成11年4月)
17 わきもこの…
戦時中のことである。東京は日増しに空襲が激しくなり一家は故郷の古知野に疎開することになった。
母と弟妹四人の子どもが帰り、親爺と姉、私の三人が東京に残った。
親爺は厚生省関係の仕事、姉は海軍技術部、私は学徒動員で、近くの東洋酸素という工場で働いていたからである。
昭和20年の正月過ぎのことである。
食料事情の悪い東京では、毎日が、腹減った≠ニいう有様だった。
私の同級生で、佐々木君という子がいた。仲が良くて、いろいろな話をしている中に、
腹が減ってしょうがない。何か、思いっ切り食ってみたい≠ニいうようなことを、私
がいったようである。
それからしばらくして、佐々木君が、
「岩手の田舎からたくさん送ってもらったから、少しあげるわ。」
といって、鏡餅の切ったのを一包みくれた。
思いがけない贈り物に、私は喜び勇んで、家に持ち帰った。今から思うと、1升分以上あったと考えられる。
夜、それを三人(父・姉・私)で、腹一杯食べたいと思ったのだが、そうはならなかった。
喜んだ親爺が、一度に食べてしまうのはもったいない。一切を三つに切って、毎日夜食に食べよう≠ニ主張したからだ。三つに切っても、小さな角餅と同じ位の大きさがあったので、そうなったのだ。
それから毎晩、焼餅にして三人で食べた。
夜おそく、餅が焼けるまで、火鉢を囲んで駄弁(だべ)っている時、親爺は短歌を作ろう≠ニいい出した。
それぞれに頭をひねって、短歌を作り、姉と私の歌を、親爺が批評して、案外と楽しい一刻を過ごしたものである。
その頃に親爺が作った短歌に、わきもこの≠ニいう言葉が、何回か出てきた。
「わきもこって何?」
と、きいたら、
「連れ合いのこと、自分の嫁さんのことを、昔はそういったんだ。」
と教えてくれた。
東京と古知野と、遠く離れて暮していて、親爺は、随分と淋しかったのだろうと思った。
今、ここに親爺とお袋のツーショットの写真がある。二人ともチンムクレて写っていて、姉などは夫婦喧嘩のあとで撮ったんだ≠ネんていっている。(お目に掛けれないが)
子ども達の前では、そんなに仲が良いとは思えない夫婦だったから、『わきもこの』の言葉は心に浸みた。
そういえば、古知野に来てからのこと。お袋が用事で名古屋に行き、帰りが遅くなったことがある。
予定時間か過ぎた頃から、親爺がそわそわし出し、その中に姿が見えなくなった。姉と二人でお父さんどうしたんだろう≠ニ探したが、家の近くにはいなかった。
あとで姉にきいたら電車の見える所で、ボーッと立っていたらしい≠ニいうことだった。
平生うちの母ちゃんは困り者だ。≠ネんて、姉や私に愚痴をこぼしてばかりいた親爺だったが、心の奥では、やはり相当に惚れていたんだと思う。
注@妹(いも)は男性の側から、同腹の姉妹を呼ぶ語。年齢に関係なく、姉も妹をも呼ぶ。また、女性が、同性の友人や、自分の妹など、親しい女性をさしていう。
A年頃の若い娘・お嬢さん
B男から結婚の相手である女を指す称。
日本書紀の雄略天皇即位前に「吾妹(わがいも→わきもこ)汝は親(むつま)しく、昵(むつま)しと雖も、朕、眉輪王(まよわのおおきみ)を畏る。」とある。
親爺がどうして、こんな古語を知っていたのか、私には判らないが、この稿を書くに当たって調べてみて驚いた。
(平成11年11月)
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