生書とは生な書であり、熟書とは錬達した書である。
生書の見本? のようなものに良寛の書がある。良寛は修行僧の時代に随分写経もした。また、懐素の自叙帖や道風の秋萩帖も習った。そして悟道の末に童心そのものになった。
熟書の見本? と思われるのに菘翁の書がある。菘翁は顔真卿から褚遂良へと学び続けて、根が画家であるので手法も造形も実に巧みであり、特にその墨色の妙は明治時代の書家を驚嘆させたものである。
人には夫々の個性がある。が、学ばざる個性は野性に過ぎない。野性が洗練されそして自己に徹した時、初めて個性となって生き、第三者に感動を与える。それが書の芸術だと思う。
王義之の書論の最初の言葉に曰く「夫れ書は玄妙の技なり。若し通人志士に非ざれば、学ぶも之に及ぶなし。」
つまり書というものは、奥深く玄妙の技芸であるから、物事によく通じそして志士でなくては学んでも通達しないということである。もう少し言いたいが蛇足になる……。
(『書芸中道』昭和45年6月号、『巻頭言集』P123) |