嚢(さき)にも書いたことがあると思うが、書と書道とは自ら異なる。それは各人のものの考え方で違ってくる。
書とは、文字を用いて自分の意志を述べるもので、これを活字として著わすとき、書物とか書籍とかになる。筆で書いても相手に事の次第がわかればよいので、書の巧拙とか、何流とかは別に詮議されるものでない。只その内容によって、芸術的価値が生じてくることは事実である。
書道とは、筆で自己の意志を伝えるばかりでなく、その書が自己の人格向上に絶えず反省し勤めるところにあるのであって、独善的な、芸術家気どりなものとは趣を異にすることは当然である。
ここに掲げた前善光寺上人大僧正智栄尼公の懐紙は
筆 智栄
鏡にも 見えぬ心を 人目には まばゆきばかり うつすふでかな
誠に御達筆で書道の精華とも拝せられるが、諸君もって如何(いかん)となす乎(か)。
(『中道』昭和43年10月号、『巻頭言集』P50) |