書道の美術館

書と私10

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第10話

白雲去来

―家を愛し庭を愛する 70歳を限度に外出中止―

『唐詩選』五言絶句の中に「宿昔青雲の志 蹉跎(さだ)たり白髪の年 誰か知らん明鏡の裏 形影自ら相憐む」という張九齢の詩がある。

私は70歳に今やならんとしている。白髪どころか総退却で夜店のステッキ型である。青雲の志は抱いたが蹉跎たりというほどの、食い違いがあったとは思わない。毎朝洗面所で鏡に映る自己を見て、おじいちゃんになったとは思うが、自分で自分を憐れとは感じない。

私は張九齢を識らないが、詩意から推すと、官途について出世して大臣にでもなろうと思ったのだが、多分に世渡りがへたで、バカ正直を自嘲したのではなかろうか。

私は私の才能が字を書く以外に何物もないことを東京時代に識った。とても豊道師の仏道布教を書によってするという大悲願について行けない。しかし付随して行くことだけは、人後に落ちずについて行った。

京都における講習会で、書道と芸術とは必ずしも一致しないという論陣を張った。講習生は納得したらしいが、同席した豊道師から後で叱責を蒙った。私は形の上でわびたが、心ではわびない。それはその後における書道界の動向が答えを出してくれている。豊道師のいう書道精神と書芸術は、人造りの上に立脚したもので、堂々たるものだ。しかし現実は師を苦境に追っている。矛盾という言葉は書道にもあてはまる。あるいは他の何道、何道にも相当するものがあるかも知れないが、私の識ったことではない。

私は釈迦の説く仏教徒である。今日を感謝して、自己に与えられた職分、すなわち字を書くことに専念する。それが仏恩報謝だと思っている。人を善導する才能は持ち合わせていない。

交通事故は毎日ある。山や海の遭難も相続く。痛ましいことだ。注意しても、どうしても起きる天災はやむを得ぬが、人災は防げば防げる。だのにそれが起きるのが人間という煩悩の社会だろう。南無阿弥陀仏 合掌

私は今、老子のいう玄虚の中に住まわんとしている。良寛はやや逃避的のようだったが、私は逃避はしない。生計(たつき)に乞食しようとも思わない。だが布施する人が、だまって布施してくれたら快く受けるだろう。(良寛には与板の解良氏が布施の大檀那であったから、乞食して歩いたのは形式であったかも知れない)

私は本能的に身を守るが、生計のために節を屈しようとは思わない。私は字を書いて19歳の時から生活してきた。今69歳であるから満50年になる。書業50年、思えば長年月であるが、回顧すると短いものである。白雲頭も昨日のように思われる。

私は今から12年前、東京へ復帰することになっていたのをやめた。それは豊道師が中京書壇を育成せよと半ば命じたのにも起因するが、私は東京の暮らしが、戦前のそれと異なるものを感じていたので、そうですなアと、あっさりやめた。そこで東京の土地を売り、九州の大檀那の布施によって、現在の地に終焉の居を建てた。そして第一の師をしのんで三猿庵と自命した。

それからの私は、自然の中に生活して行こうと思った。庭も松の苗木を植え、その他の樹木も大部分ば檀那の寄進により、そして10年余を経て書家晴嵐の居らしい住居が出来上がった。

家も庭も私の考案によっただけに、私は私の家を愛する。とくに庭は一木一草といえども、私の愛情のそれである。人間を造る書道はなかなか至難であるが、庭を造ったり、樹木を育成することは容易である。それは愛情を素直に木石が受け入れるからであろう。

私は精神的に衰えたとは思わないが、肉体的に衰えつつあることを自覚している。歯から足へ、足から眼へ、眼から根(こん)へと移動しつつある。だから私は今、流動食をとり、自動車にたくし、夜は執筆を避けている。根はまだまだある。根が尽きたらジ・エンドである。そこで私は70歳を限度として、外出を中止する。つまり巡回指導はつかまつらぬことを、ここに宣言する。昔は60で隠居したものだ。10年寿命が伸びた今日だから、70で働きに出るのをやめてもしさいはあるまい。

私は書家だと思っている。書道?教師は仮の姿である。仮の姿は本来の私ではない。私は書家の生活もしたが、仮の姿に踊らされた年月が多い。書道界への貢献なぞという美名?がそれであり、それがパンにもつながっていたことは事実である。

家人がパンのことを心配するので、私はいつも良寛の句を示す。

焚くほどは 風が持てくる 落葉かな

この稿を書いているところへ、末娘が嫁ぎ先から孫を連れて来た。おじいちゃん!またムシリに来たワ、という。私は、

ムシラれて 喜ぶ爺や 庭の秋

と駄句った。庭では園匠が松の手入れに余念がない。

(中日新聞 昭和42年9月6日 「書と私」10)

 


 

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