書道の美術館

書と私8

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第8話

筆硯有情

―筆に愛情をもって なじめば自然によさ―

どんな筆を使われますか。墨はやはり唐墨がよいでしょうネ。硯は……と尋ねられる。

唐の柳公権のいう筆硯精良、人生一楽を説くまでもなく、筆墨紙硯いずれも精良なものが良いにきまっている。精良なものは勢いメーカー品である。だが、その良いものでも、使う人によって筆がワレたり、墨がネバッたりする。紙だってシミが出るし、硯でも凍ってヒビがはいる。要は使う人の用具に対する愛情によるものだ。

私は昔から筆に対してはあまりこごとをいわない。剛毛よし、羊毛よし、長鋒、短鋒、竹筆、草筆、何でもござれである。それはソレの性能を知って、性能に適した書き方をするまでである。まき割りでヒゲはそれぬし、かみそりでまきは割れぬようなものである。

しかし筆の場合、大筆のない時、中筆を3本、あるいは5本ククリ合わせて大筆の用にすることができる。事実、昭和24年と記憶するが、日本橋三越の前に山本という海苔(のり)店がある。これはノリでは日本の山本と称されるメーカーである。そこから縁があって、看板の揮毫(ごう)を依頼された。当時私は戦争の焼け出されだから筆が無かった。友人からもらった中筆が3本あったので、これをククリ合わせて書くことにした。構想を練ること2日、書くのに2日、計4日を費やして書いた。3本の筆が1本の筆となって働いてくれたのである。これには後日談があるが紙面の都合で割愛する。

これが私の東京における戦後の代表作になっている。愛知県では今から8年くらい前に護国神社の社標を書いた。これは友人武市秀峰君と井上宮司とが竹馬の友であり、武市君の推挙によるものであるが、私は私なりの意志が働いたのである。それは戦時中2年余、私は厚生省大臣官房に勤務し、小泉、広瀬、相川の三相の下で訓示や告辞を書いていたし、昭和20年4月15日の空襲で住居を焼かれ、郷里へ帰り、丹葉地方事務所で同胞援護会の主事をこれも2年余勤め、戦災者、引揚者、遺族等のお世話をしたので、護国神社の御霊に対する気持ちが一層敬虔であったからである。

武市君の2階で武市君の大筆を借りて書いた「愛知縣護國神社」、県と国は、わざと旧字体を用いた。石屋は岡崎だというので、私はこれができあがるまで幾度も岡崎まで出向いた。私の楷書は六朝を本にした独特の手法だから、その刻字法の説明と監督とに行ったわけである。石屋さんは最初めいわくそうであったが、後ではかえって喜んでくれた。

無言の石に私の感情を移した。この作の是非は見る人々によって異なる。従って自ら誇るほどの心臓は持ち合わせていない。ただ私の魂を打ち込んだまでである。

私は私の筆に愛情を持つ。どんな筆でも書いていると、私の思うようにそれぞれの役目を果たしてくれる。ある時(30年前)美濃の関で書の話をして後に席書をした。所の歌人某氏が私の筆を手に執ってしげしげと見ていわく、このような筆でよくまあ連綿した草書が書けますナアと、即興、歌を寄せてくれた。

羊でも 狸(たぬき)にてもよし 筆はただ つかひ馴(な)れしが 書きよかりけり

またある時、京都で書道講習会(錬成会)があり、講師に頼まれて行った。その時売店でリスの毛の中筆を購った。その席で試筆をしたが、どうにもこうにも書けない。汗だくで書いたが、モノにならない。帰ってから2年ばかり捨てておいたが、何かの時その筆が目について、図案的な文字をかいたら、面白いものが書けた。そうして、それをダマシダマシ使っていたら、結構それがモノになった。昭和38年度日展に 楷書で『菜根譚』を書いた。今も珍重しているが禿筆になった姿は痛ましい。

墨については、東京時代ただ書く一方で余り大した関心を持っていなかった。せいぜい金殿餘香ぐらいの唐墨を使用するのが関の山である。それが田舎へ帰り、数年後日展に書が第五科としてはいるようになって、私の眼が揮きだした。書道という人間形成への一つの道である書が、美術の仲間入りした、いわゆる文字を用いて墨線美術の境を拓くのだ、という観点に立って、私の墨に対する感覚が鋭くなった。と同時に、紙にももちろんである。

硯は宋端渓の実用硯が1面ある。これは酒の旧友が35年前私に贈ってくれたもの。それに龍渓石と、中国へ行った時、広東で買った端渓?が1面、その他数面あるが大したものではない。

私が墨を磨(す)るのと、他人が磨ってくれるのと、発墨が異なるのを発見してから、作品を書く時は自分で磨ることにした。筆はもちろん洗って乾かして置くし、硯も古墨を使ったもの以外は洗って使用する。古墨はニカワ分がほとんど無いので硯面についたものも貴いものである。

紙面がなくなったのでこれで終わるが、要は非情の文具も用いる者によって有情となるということである。

(中日新聞 昭和42年9月4日 「書と私」8)

 


 

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