書道の美術館

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第7話

尊敬する書

―人間味にひかれる 頼山陽や良寛しのび―

私の尊敬する書の第一は頼山陽である。書というより人物が好きなのかも知れない。それは少年のころ読んだ『日本外史』のそれがそうさせたのだと思う。

山陽の詩もまた詠史が大部分で、書は宋人、とくに蘇東坡の影響を受けているらしい。

山陽は、師である菅茶山の元を飛び出し、脱藩して諸国を流浪した、いわゆる浪人学者である。その浪々の中に『日本外史』が生れた。この『日本外史』が少なからず明治維新の源になったと思われる。

山陽は九州各地を巡り、のち美濃に至り、しばらく大垣の医者で文人の江馬蘭斎の家に食客となり、漢籍を教えていたらしい。当時その門をたたく士が多く、犬山藩の村瀬太乙もその一人であった。青年山陽の烈々たる気概は、何ものをも燃えたたさずにはおかないものがあった。

秘史に属するが、江馬氏の女(むすめ)として才媛の誉れ高き細香は、山陽にひそかに思いを寄せた。山陽は知るや識らずや、ある日江馬氏に細香女を妻に申受けたいと申し出たが断わられた。傷心の山陽は年の暮れを前にして江馬家を辞し、舟で木曽川を下り、桑名へ出て京都へ旅立った。その時の詠と思われる七言絶句がある。

蘇水遥々入海流 櫓声雁語帯郷愁 独在天涯年欲暮 一蓬風雪下濃州

多情多感な青年山陽が詠じたこの一編の詩に万感こもごも至るものがある。

のち細香は親を説いて京都に山陽を訪れたが、時おそく山陽には妻があり、門人として一生山陽に仕えたという。まさにこれ女性哀史である。私は何もこのようなことを述べたくないが、人間は一個の動物である。動物であるからには恋は必然的にするものだ。この恋にやぶれた?山陽が、それはそれとして学問の大道に胸を張って京洛の地に根をおろし、幾多の士を養った偉大さ。その書も高く評価され、事実今日においても、芸術書の第一に推されている。それは種々な古筆が半ば希少価値的存在にあるのに反し、山陽は宋の文天祥と蘇東披とを兼ねた国士であり、書家であるからである。

第二は貫名菘翁である。菘翁は画家海屋として出発したらしいが、書の方が有名である。菘翁の書は前にも述べたと思うが、唐の褚遂良と顔真卿とを学んだ。そして一流を編み出した。その墨線の美しさは、画人であるだけに工夫したと思うのは、素人の考え、菘翁の書でも濃淡のあまり出ていないのもある。他出して書いたのがそれであろう。菘翁が自分の画房で書いたものは、多くは唐紙、白唐紙の相当かれたものを用い、墨も古墨に近いものと思われる。筆にしても大字は別として、中字までぐらいは画筆をそのまま使用したようだ。画家は筆洗で筆を洗い、布で拭って書く。墨も高価なものだから、少しずつしかへらない。そうした中に自然に出来た墨色の味、それが菘翁独特の線に光彩を放った、と私は考える。実は私が第二の師仙田半耕先生宅で、先生の不在中に、ちよつと戯れに書いたら美濃紙であったが、萩翁に似た墨色が出た。

菘翁の書は美的で学究的な匂いの強いものがある。したがつて「うまい字」で手本にして習いたい書である。

第三は良寛和尚である。良寛の書は唐の僧懐素と、小野道風の秋萩帖の仮名から生れたのである。一般に読みにくいとされているが、エエ加減にゴマ化してはいない。良寛は至って正直で、正直過ぎて乞食坊主でおわったその生涯、私は今その生涯の轍(てつ)を踏もうとしているくらいだ。

良寛は越後の幕府直轄地の名主のせがれに生れた。父親が死んで、跡を取ったのが十八、九のころだ。徳川幕府も末期になると、経済に破綻を生じる。それを何とかしようと思うと、勢い苛斂誅求にならざるを得ない。幕府代官と農民との間に立つ庄屋、名主の苦労は並たいていの事ではない。裏面を見ると、代官様は代官様で幕府をカサに着て私腹を肥やす。農民も農民なりにいまでいう脱税を図る。世の中がいやになって出雲崎の海へ女とともに投身する。女は死んだが良寛は助かる。通りすがりの僧にさとされて坊主になる。中国地方の寺々で修行をして、仏道を悟り、救世の願を建てようと努力したが、仏寺の中にさえ矛盾が時々出てくる。さる大寺の住持になるのを振り切って乞食の旅に出る。諸国を巡歴したすえ、生れ故郷の越後へ落着する。しょせん虚偽で固まった世の中、そこに子供だけが天真である。この天真の中に自分もいたい。そう思った良寛である。

この良寛の書は、あらゆる虚飾を捨てたところに価値がある。

良寛の三嫌(きらい)は書家の書、歌人の歌、料理人の料理で、世人がすでに知悉(ちしつ)のことだ。

良寛は乞食坊主だが、筆墨は施主が献じており、紙も良質であった。

私は以上三者の書を、それぞれの立場において尊敬している。

(中日新聞 昭和42年9月1日 「書と私」7)

 


 

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