書道の美術館

書と私5

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第5話

三段とび

―朝ぶろのなかで構図 生む苦しみは楽しい―

背水の陣を敷いた私は、ぐずぐずしてはいられない。当時、孫過庭の書譜を学んでいたが、これをもって書作すると媚(び)態になる。同じ孫過庭でも草書千字文を学ぶと、重厚で覇(は)気を伴う。で、私はこの2本を同時に学んだ。はじめは、元本を忠実に臨書した。模写に近いまでの臨書である。自分の感情なんか全然入れない。これを努めていたら、段々と何かしら解けて、この2本が融合する一点を発見した。

時、昭和6年である。私は冬の泰東書道院展に六曲屏風半双を出品しようと思った。題は苦節10年、遂に赦された蘇武を、李白がたたえた詩で、

蘇武在匈奴 十年持漢節 白雁上林飛 空傳一書札  牧羊辺地苦 落日帰心絶 渇飲月窟水 飢餐天上雪  東還沙塞遠 北愴河梁別 泣把李陵衣 相看涙成血

の一編である。

私の養母青山ための実家が静岡市外草薙という日本武尊東征の故地にあった。この縁家滝氏の別棟の2階を1週間借り、ここで制作が始まったのである。これに2日間を費やした。

叔母の滝せいがよく世話をしてくれた。日本武尊を祭った草薙神社、日本平徳川家康の廟のある久能山、木花咲耶姫を祭る浅間神社等々、制作の余暇をみては案内してくれる。私は毎朝2組ずつ書いた。それを壁間に掲げてみる。そして自問自答するのである。

木花咲耶姫の原始的な美がチラついたり、日本武尊の東征の勇姿が脳裏をかすめたり、300年の太平を築いた家康の偉業がしのばれたり、三保を一望に収めた日本平の自然美が、時に屈託する私を励ましてくれる。

こうした夏の一週間でできあがった作品「蘇武」が、第2回泰東書道院展に第4位となり、東京市長永田秀次郎賞に当選したのである。

これに気をよくした私は、次年の目標を褚遂良と顔真卿とにした。褚の自由に、顔の重厚にして果敢であるのを組合せ、この研究にも半歳以上を費やした。

そして泰東展出品の題を、「芳野三絶」とした。芳野三絶とは頼杏坪の

萬人買酔撹芳叢 感慨誰能與我同 恨殺残紅飛向北 延元陵上落花風

藤井竹外の

古陵松柏吼天飆 山寺尋春春寂蓼 眉雪老僧時輟帚 落花深處説南朝

河野鉄兜の

山禽叫断夜寥寥 無限春風恨未銷 露臥延元陵下月 満身花影夢南朝

の三首である。他に梁川星巌の、「今来古往跡茫々……」と、頼杏坪の「萬人買酔……」とを差し換えて三絶としたものもある。私は頼杏坪の方を採った。さて技法は研究した。題は決した。構図は……である。

吉野山 霞の奥は 知らねども 見ゆる限りは 桜なりけり

歌書よりも 軍書にかなし 吉野山

この和歌と俳句とをミツクスした芳野三絶である。仏家のいう諸行無常、いろはにほへどちりぬるを、である。この三絶の詩意を活かして、どう美的表現をするか……?

私は当時、種々な後援者を得ていた。政治家高木正年の後継者といわれた府会議員大橋清太郎氏が、私の苦悩を識って、洗足池に近い幽邃(ゆうすい)にしてかつ広大な別荘を制作場所として提供してくれた。私の住居は武蔵小山で洗足池畔へは徒歩で20分である。私は毎朝通うことにした。門人が交替で二人ずつ、掃除をしたり、ふろを沸かしたり、墨を磨ったりしてくれる。ぜいたくな晴嵐と謗るなかれ。門人もそこで各自の制作をするのである。私は、真夏の朝ぶろだが、淡い湯気が立ち上る、その湯気の中に吉野山を空想し構図を得た。それに感情をこめて筆を走らせた。これが泰東書道院第3回展に文部大臣鳩山一郎賞となった。師匠豊道春海は厳しい。特別会員という安全地帯へは入れてくれない。ここで私は師のいう一生稽古を改めて肯定した。

昭和8年、私は李嶠詩「日月」を書くことにした。嵯峨天皇宸翰と伝えられる李嶠詩の釈文に疑義を抱き、上野の図書館へ行って調べたら、果して相違していた。(大意は通じる)私はこの「日月」を双幅とし、章草体(草書の最古体)で書くのに苦心した。そして歌舞伎だとか、能だとか古典芸能に、その構図やら線を求めた。前2回に増した苦しみだったが、生む苦しみは、思えば楽しみでもある。遂に私は第4回展に総裁東久邇宮賞を獲得した。ホップ、ステップ、ジャンプ、三段とびを成し得て書壇の脚光を浴びた。故郷を出て9年である。

(中日新聞 昭和42年8月30日 「書と私」5)

 


 

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