書道の美術館

書と私4

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第4話

書道開眼

―職を投げて背水の陣 マクラもとに書道全集―

私の人生は有為転変である。多治見時代から8年を飛ばすことにして、舞台を東京に移す。すなわち書家を志した目的地に達したわけである。

大正14年1月、私は東京在住の縁者の勧めで、鉄道省御用商人の経営する看板業務に、字書きとして採用された。見習い期間中月給80円、4月から100円、ノルマを入れると120円。27歳の若者にしては高給である。当時の私は妻と妻の養母、それに生れたばかりの子が一人、東京の郊外武蔵小山に家賃28円ナリの家を借りて住んだ。

養母は昔、横浜で修業した産婆で、内務大臣芳川顕正名入りの免許状を持っているパリパリである。この養母が大の信仰家で、武蔵小山と目と鼻のところに、目黒不動尊があるのでお参りに行き、春洞西川先生碑を見つけ、私に行って見ておいでという。

さっそく出掛けて見た。表は隷書だが、碑陰は武田霞洞の撰文で豊道春海書する所の楷書である。西川春洞の書は、多治見時代、小学校の傍の神社に美濃の陶祖碑が建ててあり、その書者が西川春洞で、当時高い潤筆料を支払ったことまで聞かされた已知のもの。その春洞の門人にして春海が別の境地を拓(ひら)いた。しかも出藍(らん)の書である。(後で聞いたら幾回も日下部鳴鶴翁に見てもらったとのこと、さもありなん)私は、ウームとうなった。東京へ行ったら、比田井天来の門人にしてもらえと郷里の同志がいったのを、私は豊道春海に変更した。

私が豊道邸を訪れたのは、間もなくのことである。ここで入門を許され門人となったわけだ。当時の豊道門には、山崎節堂、江川碧潭、金子清超などの一流メンバーに、幹事長格として志村晴耕、幹事に宇津木瑞峯、岩谷青海、斉藤松雲、細楷のうまい亀井清堂その他多士済々で、豊道王国を造っていた。

豊道先生の執筆は正々堂々、しかも謹厳そのもので、いなか回りの文人書家とは軌道が違っており、改めて師匠に、俗な言葉でいうとほれたのである。

私の職場は、私なりの顔法が重宝がられて、それ以外の何ものも不必要。字書きだからそれを書いておれば太平である。太平であるだけに一まつの寂しさはある。そこへ洋画の多多羅義雄の実弟の間所君が入社して、欧文をゴシック体で書き、パンの資を得ることになった。間所君のいうには、絵を描いてメシの食える者は幾人もいない。今の大家でも、昔はアノ方の絵まで描いたんだ。少し描けるようになると画商がつく、画商がつくとしめたもんだが半分は画商に取られるんだ。

アノ絵……人体の素描をイヤというほど描いたんだ。ソレノ動作に衣をつけ、時代的バックを描くと美術になるんだと、スケッチブックを取り出して、サッサッと鉛筆を走らせる。実にあざやかなものである。君コレをやったらどうだ、といったら、大池さんバカいうな、手が後ろへまわるんだという。なァーるほど。

この間所君が、当時の帝展に毎年私を伴って洋画の説明をしてくれる。実に明解である。段々見聞を深めて行くと、美の神髄がわかってくる。そして満谷国四郎の裸婦の曲線美、その色彩の黄にいいしれぬ、崇高な中にかぐわい、なつかしみを感じるようになった。また別の面で、間所君は私を築地小劇場へ誘ってくれる。カブキや新派しか見たことのない私には珍しい。山本安英、薄田研二、丸山定夫、汐見洋などの大塩平八郎や、ドンゾコ、闇の力などを見て感銘するものがあった。

一方、書の方では、平凡社から書道全集が発行されるようになった。友人の野本白雲君が、それこそ懸命の努力で次々と定期に刊行される。陰の役者は松田南溟で、南溟の底力をひしひしと感じた。
この書道全集は乏しい私の頭に慈雨のように降り注がれた。もちろん、臨書もしたが、枕頭に置いて、見たり読んだりしたものだ。

間所君を通じての洋画、平凡社の書道全集の益、豊道先生の書道精神、この三者が一体になって、いなか者の私は在住5年かかって開眼されたのである。

ここでまた私は開眼と同時に職を投げた。この時私は年給3000円をこえていた。官吏だったら局長級である。だのに、あっさり投げたのである。業主はドル箱存在である私の退社を、極カアノ手コノ手でさえぎったが、私の意志は堅かった。妥協案として、絶対に私の書でなければならぬもの、たとえば衆議院の議席標のごときものは臨時に揮毫する、という約束で退杜した。この議席標書きは三重県選出の代議士川崎克氏の推挙によるもので、川崎氏は後に財団法人泰東書道院総務長関直彦氏没後その職についた人。議員団中屈指の美術愛好家である。

とにかく、私は背水の陣を敷いて、書の道へ進んだのである。

(中日新聞 昭和42年8月29日 「書と私」4)

 


 

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